ピアノのある部屋から

ピアニスト、中添由美子がピアノのこと、教室のレッスンのこと、ロシアのこと、その他日々のいろいろを書き綴ります。

ショスタコーヴィチ、死の街を照らした交響曲第7番(NHK、BSプレミアム、1月2日放送)

 このお正月休みは見たいテレビ番組がほとんどなくてネットで動画ばかり観ていたのですが、これだけはしっかり観ました。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる900日にも及ぶレニングラード封鎖(1941年9月8日から1944年1月27日)のさなかに行われたショスタコーヴィチの「交響曲第7番」のコンサート(1942年8月9日)を軸に、この交響曲にまつわるさまざまなエピソードをまじえて構成されていました。
 
 ロシア語の勉強のため毎朝見ているロシアTVのニュースでは、毎年独ソ戦の始まった日(6月22日)とレニングラードが解放された日(1月27日)は大きく取り上げられ、この封鎖を生き延びた人達も登場して犠牲者を悼む催しが行われます。
 実は私の知り合いのロシア人の方でもお母さんがレニングラード封鎖を生き延びた人がいるのです。お母さん(すでに故人です)は1930年生まれだったので、封鎖が始まったときは11才、日本で言うと小学校高学年の一番多感な年齢でした。
 他にこの番組でこのときの状況を語っていた80代前半の人達は、当時幼稚園児か小学校低学年の年齢です。食料、燃料など生活に必要なものすべてを絶たれ、究極の飢えと寒さの中で人が鬼になって行く様を見て子供心に何を思ったのだろうと思いました。うちの教室の同じくらいの年の生徒さんのことを考えると余計に心が痛みました。家族が亡くなったり、凍ったラドガ湖の上を車で逃げるときにドイツ軍に砲撃されて、隣に座っていた友達は亡くなって、自分は生きていたり…彼らはその記憶をずっと心にとどめて大人になっていったのです。

 今なら到底考えられない究極の状態の中で前線にいたレニングラード、ラジオシンフォニーオーケストラの団員まで特別に呼び戻し、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、フィルハーモニーホールでショスタコーヴィチ交響曲第7番のコンサートが行われました。飢えで全員が弱りゆく中、演奏に1時間半近くかかる大曲が演奏できたということだけでも、もう奇跡のようなことでしょう。
 また、この曲は同時代のアメリカで大反響を呼んだのですが、その裏にアメリカと当時のソヴィエトの複雑な関係がからんでいたということも興味深いものです。

 今までレニングラード封鎖のことはロシアTVのニュースで聞くことが多かったのですが、こうして日本語で聞くと悲劇がより一層伝わって来る気がしました。
 サンクトペテルグルクにはこのときの包囲戦やコンサートの関係の品が保存されている博物館がいくつかあるようです。今度ロシアに行ったときはぜひ訪れてみたいと思いました。