ピアノのある部屋から

ピアニスト、中添由美子がピアノのこと、教室のレッスンのこと、ロシアのこと、その他日々のいろいろを書き綴ります。

ロシアだより2018 第3回(全6回)

 前回の続き。

  10月28日(日)
 いよいよ念願のラフマニノフ博物館へ行く日です。
 ここへどうやって行くか、丹波、タンボフ交流協会、露日協会タンボフ支部のイリーナはメールでいろいろ事前の相談に乗ってくれました。結局オブロフカ(博物館の最寄り駅、ここからまだ20キロもあるのです)まで郊外電車で行ってもタクシーがつかまるかどうかわからないし、帰りの便もとても不便なので、彼女のお姉さんのナースチャがタクシーの半額でイワノフカまで送迎してくれることになりました。
 朝、9時半にイリーナとナースチャがホテルに迎えに来てくれ、3人で出発。
 15分ほどすると、車は郊外へ出ました。どこまでも変わらない景色の中を走っていきます。刈入れを終えて冬を待つ畑は荒野のように見えます。何か…とてつもなく…広い…
 途中で貨物列車を見かけました。当初私が乗って行く予定だった線路でしょう。 

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 1時間半ほどでウヴァーロヴォの街に入り、そこから更に南へ…
 目印も何もないので途中ナースチャは迷っていましたが、地元の人に教えてもらい、無事到着…
 入り口の門のところに音符が書いてあって、その横にここにラフマニノフが住んで、仕事をしていたと書いてあります。

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 長いこと行きたいと思っていた場所がついに目の前にあらわれました…親切な人達に助けられてようやくたどり着いたのです。何かこれが現実でなく夢であるかのように感じました。
 門からさほど離れていないところに彼の言葉が書かれた記念碑がありました。
 自分はロシアの作曲家である、自分の性格や物の見方はロシアによって造られたもの、その成果である自分の音楽はロシアの音楽である、と…
 彼の言葉が迫ってくるような感じがしました。

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 広い庭に囲まれて、彼が住んでいた家がありました。

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 家の中はガイドさんの説明を聴きました。難しいところもあったけど、予備知識もあったのでわかったのは70~80パーセントくらい…日本語を話すことも聞くこともない世界に入って3日目、ロシア語のヒヤリングの力は確実に上がって来たのを感じます。
 ここで彼の数々の作品が生まれた、彼の息づかいが100年後の今も残っているような場所です。
 今の時期のイワノフカも趣きがあるけれど、やはりリラの花の咲く時期のここは美しいらしい。「次はぜひ花の季節に来て下さい」と言われました。
 解説が終わってから、イリーナと庭を散歩しました。この日は11度とこの時期にしてはとても暖かく、きちんとコートを着ていれば散歩にはちょうど良い感じです。
 まもなく冬を迎えるこの時期、まだ庭のいたるところに秋が残っていました。

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花が咲いているところも…

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ラフマニノフ様との2ショットです…

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 見学を終えて、私はどこか食べるところがあったら2人にお昼をご馳走しようと考えていたのですが、ここにそんなところはあるはずもなく、彼らが用意してくれた手作りのケーキやクッキーに日本から持って来た源吉兆庵のお菓子を出してお茶にしました。季節商品の栗のお菓子が特に好評だったようです。
 帰りは、1時間半ほどでタンボフの街まで戻って来ました。
 ロシアの運転は日本に比べると荒いと常々思っていたのですが、特にトラックの運ちゃんの運転は荒いのを通り越してもう「あおり運転が罪だなんてどこの国の話でしょう」という感じです。私はここでは運転できないですね。ナースチャは実に機敏にトラックの追跡をかわしていましたが、途中一回割り込まれて急ブレーキを踏むことに…後部座席で眠っていた私は一気に目をさましました。

 4時過ぎにホテルに戻ったので、一休みしてホテルから5分ほどのところにある「タンボフ郷土資料館Тамбовский обласной краеведченский музей」に走っていきました。NHKテレビの「ロシア革命100年」の番組でも取り上げられていたので、ぜひ見たかったのですが、何しろ月曜日がお休みなのです。

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 年配の女性の学芸員の人(多分ここで半世紀以上も働いてきたのでしょう)が丁寧に説明してくれました。テレビで観た「タンボフの反乱(アントーノフの反乱)」のコーナーもありました。犠牲者の悲惨な写真はテレビでみるよりずっとリアルでショッキングでした。

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 元々ここはキリスト教ロシア正教を信仰する善良な農民の町だったのです。赤色テロ(ロシアではロシア革命後のボリシェビキ政権による人民への弾圧をさす)によって町の様子も人の心も変わってしまう様子が痛々しく印象に残りました。

 夕方、再びイリーナと落ち合って途中のカフェで夕食を食べて散歩。翌日彼女は仕事があるのでこの日のうちにタンボフの名所を説明しておきたいと言って再び出て来てくれたのです。よく歩いて、よく食べて、よく喋って(もちろんすべてロシア語です)9時半ごろホテルに戻りました。