ピアノのある部屋から

ピアニスト、中添由美子がピアノのこと、教室のレッスンのこと、ロシアのこと、その他日々のいろいろを書き綴ります。

左手のための曲

 ピアノ人生で初めて手を怪我して明日で1ヶ月になります。ようやく、日常生活では右手をどんどん動かすようにと言われました。しかし、ピアノに関してはまだハノンを1オクターブがやっとで、少し増やすと痺れや鈍痛がでる状態。こちらは本当に焦ってはいけないようです。

 2年前から欠かさず受けてきたパーヴェル(ネルセシアン)のレッスンは今年はお休みしようと思っていました。日本で彼のレッスンを待っている人はたくさんいるし、怪我明けで本調子ではない私が受けるより、彼のレッスンを待っているどなたかに時間を譲った方が良いと思いました。
 しかし、レッスンに行けないとなると、彼にその事情を説明しなければなりません。
 ロシア語の医療用語の専門家の力を借り、日曜日に彼に今の状況を説明するメールを書きました。
 今年は自分は行かない方が良いと思っていても、メールの送信ボタンを押すと無念さがこみ上げました…

 1時間後、メールを開いてみると彼からの返信が届いていました。
 案の定、とても心配させてしまったようです。折から、明後日4日にモスクワのチャイコフスキーコンサートホールで彼とプーランクの「2台のピアノのための協奏曲」を弾く予定だったロシアの若いピアニスト、フィリップ・カパチェフスキー(この人はパーヴェルの生徒です)が右手の骨折のため降板し、ミハイル・トゥルパーノフに変更になったたという情報が入ってきていましたので、多分彼は私のメールを見て「ユミコよ、お前もか…」と思ったことでしょう。
 そしてそのあとに
 
 出口はたった一つ、左手のための曲を勉強すること、

と書いてありました。
 彼のボストンの生徒(彼は2013年からアメリカ、ボストン大学の教授を兼任しています)に左手だけのピアニストがいるそうです。その人はバッハの無伴奏のヴァイオリンやチェロの組曲を左手だけのピアノ曲に編曲して弾いていて、それが音楽的に興味深いものになっているとも書いてありました。

 左手のための曲…

 右手が弾けるようになるまでの繋ぎのような気持ちで何となくラヴェルの「左手のための協奏曲」を始めてはいましたが、テンションが上がらないまま日にちが過ぎて行っていました。
 今年は少しのんびり過ごしたい、そういう気持ちがありました。
 彼のメールを読んで、頭を殴られたような衝撃を受けました。

 やるのなら、真剣にやらなければならない…

 世界第一級のピアニストというのは、心構えも第一級なのだと思い知らされた一瞬でした。

 右手が弾けないのなら時間を無駄にせずに左手のテクニックを強化する、

 気持ちを落とすな、

 音楽をあきらめるな、

 私は強くなりました…

 カパチェフスキーは3月31日にモスクワ音楽院のドレンスキー教授のクラスコンサートでラヴェルの「左手のための協奏曲」を弾いたという情報も入ってきました。
 右手の骨折のためにパーヴェルとの共演をあきらめなければならなかったカパチェフスキーの無念さは想像するに余りあるのですが(最近カパチェフスキーは数多くパーヴェルと共演しています)、きっと彼はカパチェフスキーにも同じことを言って励ましたのでしょう。

 私の中で迷いが消えて、気持ちが前向きになりました。しばらくは右手と左手は切り離して、右手はリハビリ的な練習を頑張ること、そして左手はラヴェルを頑張って仕上げます。